そんな俺に神様が下した采配は、本人を懲らしめてもダメなら身内にって事なのだろうか。ウリセンに行った翌月、父が倒れた。
今までの記事で何回も天罰と書いたが、ゲイ活をする度にタイミング良く不幸な事が起こるので、ただの偶然なのかもしれないけど、俺はやはり天罰だと思ってしまう。妻というものがありながらゲイ活やってるのだから当然だよね。それでも止められない俺は精神的に何か欠陥があるのだと思う。
話は逸れたが、父が倒れて俺の生活環境は一変した。父が倒れる以前より、母は軽い認知症を患っており、いわゆる老老介護状態だった事もあって、父が入院している間は母の面倒を誰かが見なければならなくなったが、東京での仕事がある俺は実家に帰るわけにはいかない。介護離職も考えたが将来の事を考えると、その選択肢はあまりにも不安が大きい。姉は実家の近くに住んではいたが、母子家庭で家計は苦しく仕事を止める余裕なんて無かった。
結局、俺と姉とケアマネジャーで話しあったうえで母を施設に入れる事にした。共倒れを防ぐためには仕方のない選択だと、ケアマネージャーの方は仰ってくれたが、やはり自分の親を施設に入れるというのは相当に辛かった。
数ヶ月後、父は退院したが、入院前と比べてすっかり弱ってしまっていた。もう老老介護できる余裕なんて無かった。そこで考えたのは、近所の小規模多機能ホームに母を転院させ、そのホームにデイサービスという形で父を通わせる事だ。このアイデアは非常に上手くいった。母は毎日父の顔が見れるから安心していたし、父もホームに通うことで少しずつ健康を取り戻していった。
しかし、そんな生活も長続きはしなかった。小規模多機能ホームに移って1年後、母はあっさりと逝った。いつも家に帰りたい帰りたいと言っていたので、やはりホームでの生活は相当のストレスだったのだろう。危篤になってから亡くなるまでの1ヶ月間、俺は介護休暇を使って母との最期の時間を過ごした。上京して30年余り、ろくに実家に帰らなかった親不孝な俺だったので、この最期の1ヶ月は本当に本当に貴重で濃い時間だったと思う。
そして母が亡くなった4年後、後を追うように父も亡くなった。折りしも、新型コロナウィルスの蔓延で、初めて東京に緊急事態宣言が発出された週だった。県を跨ぐ移動は自粛するよう言われていたが、そんな事も言っておられず葬儀のため実家に戻った。初の緊急事態宣言という事で、今とは違って世間では不安の声が大きく、空港は人っ子一人いない状態で、飛行機も貸し切り状態だった。そんな状況に、父が亡くなったという悲しさも相まって、とてつもなく心細くなった事を昨日の事のように覚えている。でもあれから2年も経ったのか。年を取るにつれ1年の経過を早く感じるようになっているが、コロナ禍になってから更に加速したような気がする。
父が倒れて亡くなるまでの5年間というもの、俺は月に数回ペースで実家に帰るようになったので、さすがにゲイ活をする気力もお金もなく、この間は完全にゲイ活は封印される事になった。