「ぐ……、

 ぐろ川、重いッ……」



ただでさえ体の大きな黒川が、

気を失ったまま私の上に

のしかかっている。



「ぐっ……。

 身動きが取れない……」



どうにか自分の体を引き抜こうと

しばらく格闘していたけれど、

力が尽きた。



少し諦めて、

黒川の顔をそっと見た。




……ギャッ!

近い!



慌てて顔を背けると、

黒川の荒い呼吸が耳にかかって、

そのたびに背筋がゾクゾクする。



黒川が起きるまで待つか、

誰かが来るまで待つか。




どちらにしても、

朝までこのままなのか……。


地獄だ。





朝まで……。



私は熱のある黒川が

上に乗っているから温かいけれど、

黒川は寒いだろうな……。



だからと言って

ここにある布団を

黒川の上に掛けたら、

さらにおかしな状況になりそうだし。



先に黒川が目覚めたとしても、

誰かがここに来たとしても、

私が怒られるのは確実だ。



ああ……、気が重い。



「黒川君、開けますよ?」



部屋の扉をノックする音が聞こえた。




……この声は!



「空いた皿を下げるように

 お嬢に頼んでおいたのですが、

 一向に戻って来ないから。

 ……って、お嬢!」



「あ。白石……」



白石が立ったまま固まった。



「白石ー!
 
 固まるなー! 助けろー!」



……駄目だ。

白石が完全に放心している。



ますます状況が悪くなってしまった。


このまま化石になってしまいたい。



一つだけ幸いなことに、

白石が部屋の扉を開けたまま

放心しているので、

大声を出せば助けを

呼べるかもしれない。



何ともカオスな光景なので、

赤井と桃の高校生コンビには

刺激が強すぎるだろう。



ここはやはり

青田に助けを求めよう。



「青田ー!

 青田ー! 助けに来てくださーい!」



「何ー? お嬢、呼んだー?」



早っ!

こんなに広い屋敷で、

よく声が届いたな。



「…………。

 これは…………。

 お嬢…………。

 何て事をやらかしてしまったの?

 二人の人間を

 殺めてしまうなんて…………」



青田、

冗談で言っているの?



「いやいやいやいや。

 青田、よく見てください。

 二人とも

 気を失っているだけですし、

 私はこの通り

 黒川にマウントを取られた

 状態ですし。

 だからお願い。

 私の上に乗っかっている黒川を

 早く引き剥してください」



青田に黒川を剥がしてもらい、

ようやく私は

黒川地獄から解放された。



「青田、面目ない。

 このご恩は一生忘れません。

 説教なら

 明日まとめて受け付けますから、

 黒川と白石をよろしくお願いします」



私が、

食事が乗せられたままのワゴンを

押して

部屋から退出しようとすると、


青田が静かに笑った。



「お嬢。

 僕は怒ったりしないよ?

 お嬢がわざと

 人を困らせるような事を

 しない人間だということは、

 ちゃんと分かっているから」



「…………」



青田はいつもそうだ。


多分、

怒りを通り越して呆れている。



優しい言葉をかけられるより、

怒ってくれた方がいい。



「……そう。良かった。

 では、

 黒川と白石をお願いします。

 おやすみなさい」



私も青田ににっこり笑って、

ワゴンと一緒に部屋から出ていった。





翌朝、

白石は目も合わせてくれなかった。



朝食は

黒川も青田もいなくて、

とても静かだった。



食事を終え、

食器をキッチンまで運ぶと、

白石が

食器を片付けているところだった。



「白石……」



「…………」



「白石、ごめんなさい。

 昨日の事、怒っているよね?」



「怒ってなどいませんよ。

 俺には関係のない事ですから」



「白石、違うの。

 黒川に怒られている最中に、

 黒川が気を失ってしまって……。

 たまたま私に

 倒れてきただけだから……」



「……お嬢」



白石は皿の片付けを止め、

私の前に立った。



「俺は本当に怒っていません。

 自分に腹を立てているだけです」



「どうして?」



「お嬢を黒川君の部屋へ

 行かせるべきではありませんでした。

 この屋敷は男ばかりで、

 お嬢だけが女。

 今まで通り

 お嬢に接するのには無理があります」



「誰も私の事なんて

 女として見ていないから。

 私はこの屋敷に

 連れて来られた時から

 何も変わっていないよ。

 だから心配しないで」



「皆、そうは思っていません。

 ただ

 気持ちを隠しているだけですよ」



「…………私達は

 家族じゃないの?」



「家族ではありません。

 主と執事です」



「…………」



どんなに長く一緒に暮らしても、

家族にはなれないんだ。



皆の事を

家族だと思っていたのは……、


離れるのが寂しいと思っているのは、

私だけ。



「お嬢。

 そんな顔をしないでください。

 俺達は

 お嬢が幸せになる事だけを

 考えて生きてきたのですから。

 笑ってくれないと困ります」



「…………」



白石の言葉の、

何処で笑えばいいのだろう。



皆の前では

明るく振る舞おうと心に決めたのに。

 

自分の目の前にあるものが、

全て涙で滲んでいく。



「お嬢。

 泣かないでください。

 泣かれても、

 俺はお嬢を慰める事は

 できませんから」



白石はそう言いながら

私の涙を手で拭い、

そっと頭を撫でて

キッチンから出て行ってしまった。



白石に素手で触れられたのは、

これが初めてだ。



「うっ……、くっ……」



私はシンクの前に立って

自分の食器を洗った。



「お嬢、何しているんだ?」



後ろで声がしたので、

慌てて涙を拭って振り返ると、

カウンターの前に赤井が立っていた。



「……赤井」



「お嬢、どうした?

 泣いているのか?」



「あ……。うん。

 昨日、

 黒川のプリンを食べてしまったから、

 白石に滅茶苦茶怒られちゃった。

 へへ」



「お嬢。

 白石君はお嬢に

 キツイ事ばかり言っているけれど、

 影では凄く心配しているから。

 あまり落ち込まなくていいと思うぞ」



「……うん。そうだね。

 あ、赤井。

 桃が買って来てくれたプリン、

 もう一度買って来てもらえないかな?

 今、五百円しか無いけれど、

 これで買えるだけ買って来て?

 黒川に返したいから」



「お嬢、

 ショックを受けるかも

 知れないけど……。

 あのプリン、

 一個六百円するんだぜ」



「え? 高ッ!

 高級そうだったから

 一個百円ぐらいするのかと

 思っていたけれど。

 想像を遥かに上回る

 価格だったとは……」



「アハハ。

 それでお嬢が元気になるんなら、

 金はいいよ。

 買って来てやる」



「ううん。

 黒川の分は私が返さなきゃ。

 じゃあ、

 今は五百円しかないから、

 百円貸して。

 いつ返せるか分からないけれど、

 必ず返す」



「分かった。待ってろ」



赤井が走って行ってしまった後、

私は洗い終えた食器を拭いて

食器棚に入れ、

自分の部屋に戻った。