お風呂上がりにジュースを飲みにキッチンへ行くと、白石がいた。
私は慌てて黒川から借りっぱなしの鼻眼鏡とマスクを掛けた。
白石の蕁麻疹は治っているけれど、二人きりになった時に再発する可能性もあるから、眼鏡とマスクは欠かせない。
「白石、
何をしているのですか?」
「……。
コーヒーを淹れようと思いまして」
白石は一瞬だけ私の方に顔を向けたけれど、すぐ目をそらして、棚から出した道具をカウンターに並べていった。
「……白石。
コーヒーを淹れるところを見てもいいですか?」
「別に……。構いませんよ?」
コーヒーは苦いから好きではないけれど、白石がサイフォンでコーヒーを淹れているところを見るのは好きだ。
冷蔵庫からオレンジジュースを出し、カウンターにある椅子に座って、白石がコーヒーを淹れるのを待った。
白石は私が居るのを気にすることもなく、コーヒー豆を挽き始めた。
豆を挽く音と共に、挽きたてのコーヒーの良い香りが漂う。
「フフッ」
「何ですか? お嬢。
気持ちが悪い」
「白石、酷い。
いえ。一度、コーヒー豆を挽いてみたくて白石にお願いした時の事を思い出して。
あの時、ハンドルを回しすぎて粉をぶちまいて、白石に滅茶苦茶怒られたな……。って」
「ああ……。
でも、あの時飲んだコーヒーは、意外と美味しかったですよ」
「え? 本当ですか?」
「コーヒーは豆の挽き方によって味が変わってくるのですが、あの時お嬢が挽いたコーヒーは、味も香りもよく出ていました。
片付ける事を考えると、二度とお嬢に挽いてもらいたくありませんけどね」
「……」
私が黙ると、白石は静かに笑った。
「白石。
今は簡単に淹れられるコーヒーメーカーが沢山あるのに……。
どうして古いサイフォンを使い続けているのですか?」
「音と匂い……、ですかね」
白石はマッチを擦って、アルコールランプに火を点した。
「コーヒー豆を挽く時、マッチを擦った時、アルコールランプに火を点した時、フラスコの中が沸騰した時……。
この全ての音と匂いは、不思議と不快ではなくて……」
フラスコの中のお湯が大きな気泡を出しながらコポコポと音を立てる。
白石の長すぎる説明も、コーヒーサイフォンを眺めながら聞いていると心地良い。
「このサイフォンの形状も、好きな理由の一つかもしれませんね」
「あー。少し化学の実験っぽいですよね」
「お嬢。
化学と言えば、またお嬢だけ宿題を提出していませんよ?」
「う……」
まずい……。
話題を変えなければ。
フラスコの中のお湯がロートに上がっていくと、白石が竹べらでロートの中をかき混ぜる。
「し、白石。
こんな時間にコーヒーなんか飲んだら眠れなくなりますよ?」
「今から例の宿題の採点をしなくてはなりませんから。
眠気覚ましに丁度良いです。
お嬢だけ提出されていませんが」
「え? 今から?」
まずい……。
話題が全く変わっていない。
白石がアルコールランプの火を消すと、ロートまで上がっていたお湯がコーヒーになってフラスコに落ちてきた。
「お嬢も今からここで宿題をしたらどうですか?
分からない所は見てあげられますし」
「今からここで?
えー……」
「黒川君に怒られたいのなら、無理強いはしませんが」
「ノートを持ってきますから、黒川には言わないでください」
慌てて立ち上がると、白石が笑った。
何だか面倒臭い事になってしまったな……。
ノートを持って再びキッチンに戻ると、カウンターの上にホットココアが置いてあった。
「白石……、これ……」
「お嬢はコーヒーが苦手でしょう?
宿題が終わった後、眠れなくなっても困りますしね」
「あ、ありがとう……」
「それより、いい加減そのマスクと馬鹿っぽい眼鏡を取ったらどうですか?
そんな馬鹿っぽい姿で居られると、気になって仕方がないです」
白石が、私からマスクと鼻眼鏡を取った。
馬鹿っぽいって……。
黒川の鼻眼鏡なんだけどね……。
私と白石はカウンターに置いてある椅子に横に並んで座り、静かな時間を過ごした。
「うー……。う……、
うう……、うーん」
「お嬢、うるさいですよ。
静かに問題を解いてください」
「うーん……。
全く分かりません」
「どの問題が分からないのですか?」
「ここに書かれていること、全てです。
もはや、何を問題にしているのかすら分かりません」
「……」
それから数時間、私と白石は悪戦苦闘しながら問題を解き終えた。
「やりましたー! フゥー!」
「全く……。
たった数問に、どれだけ時間が掛かるのですか?」
「あッ。もうこんな時間。
白石……。
採点が進んでいませんね……」
「誰のせいだと……」
白石が私の顔を見て言葉を止めた。
「お嬢。よく頑張りましたね。
いつもそれ位頑張ってくれたら良いのですが……。
今日はもう遅いから早く寝てください」
「でも、白石が……」
「俺の事は心配しないでください。
徹夜するためにコーヒーを淹れたのですから」
「でも……」
「お嬢に手伝える事はありませんよ?
むしろ、大人しく眠ってくれる方が有難いです」
「白石……」
「おやすみなさい、お嬢」
白石が優しく笑う。
「……。おやすみなさい、白石」
私はそう返事をして、大きな花丸の付いたノートを持ってキッチンから出た。