帰りは松田先輩が屋敷まで送ってくれた。
「ただいま……」
……。
あれ?
鍵は開いているけれど、屋敷の中に人がいる気配がしない。
皆、まだ帰って来ていないのかな……。
キッチンのカウンターの上に今日の晩ご飯の材料らしき野菜は置いてあるけれど、黒川がいない。
「黒川……、いますか……?
……! ギャー!」
黒川の部屋の扉をそっと開くと、黒川はシャツを脱いでTシャツに着替えているところだった。
慌てて扉を閉めて、黒川の部屋の前でしばらく固まっていると、Tシャツに着替え終えた黒川が部屋の扉を開けた。
「何だ? お嬢。
人の部屋に入る時は、ノックをしろといつも言っているだろう」
「ご……、ごめんなさい」
黒川の顔がまともに見られなくて俯いた。
顔が熱い……。
自分で見られないけれど、多分、耳まで真っ赤になっているはずだ。
「フッ……。
どうした? 不良娘」
「その言い方……。
いえ。
屋敷に誰もいないのかと思って……」
「白石君は職員会議。
赤井君と桃は部活。
青田君は買い出しに行っている。
お前は一人で帰って来たのか?
連絡くれたら迎えに行ってやったのに」
「松田先輩が送ってくれました」
「……そうか。
ならば、兄として
礼状を書いておかなければな」
礼状?
黒川、余計な事を書きそうで怖いな……。
「……で、楽しかったか?
ファミリーレストランは」
「黒川。
私はファミリーレストランで
大恥をかきました。
もう二度と私がファミリーレストランへ行くことはないでしょう……」
「お前が恥をかくのは
ファミリーレストランに
限った事ではないだろう」
「黒川。
クレジットカードをください」
「は?」
「皆、親名義のカードで支払っているのに、私だけ五百円しか持っていなかったから、五十円足りなくて赤っ恥でした」
「お前がライスを大盛りに
したのが悪いのだろう」
「く……、黒川。何故それを……。
やはり、あの鼻眼鏡男爵は
黒川だったのですね」
「何故、俺が男爵止まりだ。
王と呼べ」
いやいや。
鼻眼鏡に爵位など要りませんよね?
鼻眼鏡の頂点に立ったところで、
得られるものは失笑ぐらいですよ?
黒川、よく考えて。
鼻眼鏡王でいいの?
本当にそれでいいの?
「とにかく
二度と恥をかきたくありませんから。
カードをください。
カードッ、カードッ、
カードッ、カードッ!」
「うるせーな」
黒川が、自分の財布からカードを取り出す。
「ほら。持っていろ」
「わーい!」
……。
ドリンクバーの無料券が三枚。
「黒川。
これ、ファミリーレストランで
貰ったやつですよね?
私も一枚貰いましたよ?」
「次回、使え」
「だから、私は二度と
ファミリーレストランに行きませんから!
それに松田先輩は黒いクレジットカードを持っていました。
よく分かりませんが、黒いカードって最強なのでしょう?
私もブラックカードが欲しい!」
「仕方がねーな……」
黒川は机の引き出しを漁って紙とペンを取り出し、何かを書き始めた。
『黒川カード』
黒川=ブラック……。
なるほど!
黒川がブラックカードにペンで『肩たたき百回』と書き、私に渡した。
「発動!」
「黒川……。
どれだけ私を馬鹿にすれば
気が済むのですか?
こんな『お手伝い券』など、
今時、幼稚園児でもやりませんよ。
馬鹿にするのも、いい加減に……、
……ハッ!」
ブラックカードの隅に『百回につき報酬三十円』と書いてあった。
「はっ……、発動!」
私は黒川の肩を叩いた。
高速連打した。
百回と言わず、二百回、三百回。
日頃の恨みも、この拳に込めて。
黒川は椅子にふんぞり返って目を閉じ、
滅茶苦茶リラックスしている。
くー! 悔しい!
連打連打連打連打!
「フッ……」
黒川が目を閉じたまま笑った。
「何ですか? 黒川。
急に笑って……。
気持ち悪いですよ?」
「お嬢。肩たたきが上手くなったな」
「……そうですか?」
「お前。小さい頃は毎年、母の日や父の日に『肩たたき券』を配っていたな。
あの頃は俺も肩なんか凝らなかったし、お前も力任せに叩くだけだったから、翌日、俺も白石君も青田君も肩が痛くなって笑ったな」
「迷惑……、でしたか?」
「いや。確かに痛かったが、お嬢の力は何処から出ているんだって話で盛り上がったり、叩く時に必ずお前が変な歌を歌うから、皆それを楽しみにしていたな」
「……」
私は高速連打の手を緩め、ゆっくり黒川の肩を叩いた。
「……黒川」
「ん?」
「クレジットカードの件は冗談です」
「ああ」
「だから……。
これからも肩たたき券を発動してください」
「フッ……」
しばらく黒川の肩を叩く音だけが響いて、
静かな時間が流れる。
「黒川……」
「何だ?」
「今でジャスト五百回肩を
叩きましたので、
百五十円ください」
「……」
黒川が暗黒世界よりも深いため息をついた。
「お前……。
金の計算は早いのに、
何故、計算ドリルが
解けないんだろうな?」
「さあ? 何故でしょうね?」