ここは、霊峰カクヨノ山の麓にある小さな村。
カクヨノ山に棲むと言われる精霊や妖怪に祈りを捧げることで平穏が続いていた村に、今年もお盆の時期がやって来た。
この時期の村は、先祖の霊を祀る準備に追われて、慌ただしさにも似た賑やかさがある。
村の一大行事であるから、大人も子供も関係なく、全員で準備を行うのが当たり前の光景だ。
ここは、霊峰カクヨノ山の麓にある小さな村。
カクヨノ山に棲むと言われる精霊や妖怪に祈りを捧げることで平穏が続いていた村に、今年もお盆の時期がやって来た。
この時期の村は、先祖の霊を祀る準備に追われて、慌ただしさにも似た賑やかさがある。
村の一大行事であるから、大人も子供も関係なく、全員で準備を行うのが当たり前の光景だ。



おおーい。そっちの柱を支えてくれ。





よし、こっちはいいぞ。





ふう……、今年も立派な『焔やぐら』が建ったな。





ああ、これならご先祖さまも満足して帰って来られるだろ。





今年はこのまま晴れの日が続きそうだし、子供も祭りを楽しみにしていたから良かった。





あとは火口の用意だな。


集まった男衆たちの目の前に、代々祭りに使われてきた『焔やぐら』が建っている。
提灯がぶら下がった中央には篝火を灯す箇所があり、幽世から先祖の霊を呼び戻す『迎え火』は、この村の中心に飾られる。
このやぐらに飾られた火を、各々の家に飾り、先祖の霊を迎え入れるのだ。
先祖を迎える準備は『迎え火』だけではない。



おうまさーん、おうまさーん♪





うう~、んんん……っ


女たちが集まって炊き出しを行う長屋の軒下では、幼子たちが胡瓜と茄子を使って『精霊馬』を作っていた。
反り返った胡瓜と茄子を馬や牛の体に見立て、刺した棒を脚とする。
一見すると人形遊びのようだが、盆の始まりにこの精霊馬に乗って先祖たちは幽世から現世にやって来て、盆の終わりにも乗って幽世に帰っていくのだ。



あれ…?きゃははっ。坊のおうまさん、なんか変な形~。





そ、そんなことないってばっ。





……ないよ、多分。





ええ?おうまさんってば、そんなにあし多くないよ?





う、あれぇ……?


家が馬屋で普段から見慣れているねねの言う通り、胡瓜に刺された棒の数は四肢より遥かに多い。



へ~んなの~。





多い方が速く走れるからいいんだよ!





あらら、二人とも喧嘩するんじゃありませんよ。


すると長屋で炊き出し用の準備をしていたねねの母親が、切ったスイカを持って外に出てきた。休憩のおやつ用に冷やしておいてくれたものだった。
ぱぁっと、ねねの表情が輝く。



スイカだ!ねね、好き!





暑かったでしょう。ほら、冷えているうちにお上がり。





ありがとう、おばさん!


さっそく西瓜に手を伸ばし、同時にかぶりつく二人。
冷えた果肉と果汁をこぼさないように一口でのみこめば、体の中から熱がスッと引いていくようだ。
ずっと夢中で精霊馬を作っていたから気づかなかったが、季節は夏、まだまだ暑さには気をつけなければいけない。



あら、もうこんなに出来たのね。どの精霊馬もよくできているわ





……ちょっと、面白いのもあるけれど。


軒下に並べられた精霊馬の一つを見て、ねねの母親が密かに笑う。



これだけあれば安心ね。村中のご先祖さまがみんな帰って来られるわ。





もちろんよ!そのためにがんばって作ったんだから。





おらのは母ちゃんが早く帰って来られるように、足が速そうな馬を作ったんだ。


盆の行事の意味は子供たちだって知っている。それを楽しむことが出来るのは、きっと村の皆が寄り添いながら祭りとして行ってきたからだろう。
西瓜の汁で汚れた顔を母親に拭いてもらいながら、ねねが楽しそうに言った。



今夜のやぐらの火付けは、お母さんと一緒に見るのよ。きっときれいだから、ねね楽しみ。





へえ、いいなあ……。





父ちゃんはきっと夜まで祭りの準備をしているだろうからなあ。





じゃあ、おばさんたちと一緒に見ましょう。一緒ならお父さんも心配しないでしょうから。





本当に?やったあ!


ねねの母親が提案すると、坊は一瞬影を落とした顔に笑顔を浮かべる。
そう、皆が和やかに話をしていたときだった。



おい!大変だぞ!!





!?





?





父ちゃん……?


血相を変えた坊の父親を先頭に、村の男たちが大声を上げながら長屋の方へと駆けてきた。
只ならぬ様子で男たちが一斉に現れたのに、坊とねねが驚いて目を丸くしている隣で、ねねの母親が一体何事かと男たちに尋ねる。



どうしたんだい、そんな大声を出して。子供が驚いているじゃない。





すまない……しかし、大変なんだ。話を聞いてほしい。





うう……うっ。


すると、坊の父親の背後から、この村では見ない顔の男が現れた。
男の姿は何かに襲われたかのようにボロボロで、肌には爪で引っかかれたような傷跡が目立つ。
間もなく男が地面に膝を着いてしまったのに、ねねの母親が傍に駆け寄った。



まあっ、一体どうしたんですか!





すまない、大丈夫だ……。





こんなに怪我をして大丈夫なものですか。……カクヨノ山を越えて来たのですか?





隣村の者らしい。


見慣れない男の着物は泥と木の葉に塗れていた。山の中を通らなければこの様にはならないし、何より男はひどく疲れ果てているようだった。
何があったのか、先に男から話を聞いた坊の父親が代わりに話した。



なんでも一昨日の晩、隣村が物の怪に襲われたらしい。……それも、大きな化け猫の物の怪だと言うんだ。





大きな猫ですって……ッ!?





父ちゃん、それって……。


――大きな猫の化け物。それを聞いて皆の頭に、かつてこの村が脅かされたという昔話が蘇る。



まさか、あの猫又のことなの?





馬鹿をいうなよ。ありゃ何十年前の話だと思っているんだ。





でも、物の怪は何百年って生きるって言うからね。ああ、恐ろしや。


いつの間にか騒ぎを聞きつけた他の村人たちも長屋に集まって不安を口々に言う。その昔、沼の神様を食べてしまったという物の怪の話を知らない者はいないのだ。
何せその伝承の沼は未だに枯れたままなのだから。
皆、祭りの準備どころではなくなってしまう。



とにかく、今夜は祭りの準備はやめにしておくか……。





お母さん、ねね、怖いよお……。





よしよし、大丈夫だからね。





……父ちゃん


幼いねねが大人たちの雰囲気にのまれて怖がり、母親に縋りつく姿を見て、坊もまた不安な表情で父親の着物を掴む。
その様子に父親も気がついて慰める。



大丈夫だ坊、そんなに怖がることはない。





でも神様を食べた化け物だって言ってたじゃないか。おらは怖い。





この村に来るには物の怪だってカクヨノ山を越えなきゃならねえ。





俺たちは村に物の怪が下りて来ないようにカクヨノ山に毎日祈ってるんだ。だから大丈夫だ。


だから、怖がることはないと父親は息子に言い聞かせて頭を撫でてやる。
しかしその頃、頼りのカクヨノ山でも一つの事件が起ころうとしていたのだった――。
――カクヨノ山の山頂付近。
山の西側は妖怪たちの棲み処。日が当たらなく、昼間でもどことなく薄暗く湿った空気の山中。
まれに人間がカクヨノ山を越えようと中に入ったとしても、意識の外で西側の道は避けてしまう。そんな得体の知れない雰囲気をしている。
物の怪の多くはこの薄気味悪い闇に溶けて暮らしているのだが、それなのに似合わずこの山頂付近には、ポツンと木造の小屋が建てられていた。
もしも、不運にも妖怪たちの勢力が集結したカクヨノ山の西側に迷い込んでしまった人間がいたら、つい足休めにと入ってしまいそうな小屋だが――それは決してならない。
今でさえ、その小屋からは只ならぬ雰囲気が滲み出ていた。
それから何者かが小屋の中で暴れまわるような音と喧騒。
怒りに任せて古い床板を踏みまわる音は段々と小屋の扉へと近づいて行って――



師匠のばかーっ!!


子鬼が一匹、外に飛び出した。
その少女の子鬼は蛟鬼だった。
山小屋は彼女が住む家――つまりは、彼女が師匠と称する妖怪たちの総統、鬼王丸のものだったのだ。
住み込みで鬼王丸の弟子をしている蛟鬼は、珍しく感情を露わにして声を上げると、開け放った小屋の扉の中を睨みつけながら更に声を上げ続けた。



師匠のあほ。





飲兵衛っ、お酒臭い。





無精髭の悪人面。





生活能力なしの引き籠り。





すうううぅー……


最後、胸が反るまで息を吸い込んで、



大っ嫌い!!


殴りつけるように吐き出したその言葉を閉じ込めるように、小屋の扉を荒々しく閉じた。
蛟鬼は小さな背中を小屋に向けて、振り返ることなくこの場から走り去ってしまう。
そしてその背中を追いかけようと、小屋の中に残された人物が扉を開けることはなかった。
ここはカクヨノ山の中腹、夏も冷たさを忘れない水が流れる清き川。
幽世の者なれど暑さ寒さを愉しむ物の怪や精霊、それに獣たちが西や東から集まる小さな川は、今日とても賑わっていた。



総員集まれ!せいれーつ!


普段はせせらぎと風音の笑い声しか聞こえてこない場所が何故そんなに騒がしいのかと言えば、川辺には小さな個の軍勢――もとい、胡瓜と茄子が大量に並んでいた。
魂を幽世から現世に還し、現世から幽世に還す乗り物。
人の手で作られた精霊馬が精霊となり、盆の始まりの出立に向けて集ったのがこの場所だ。
その成りたての精霊馬たちを率いるのも、また胡瓜と茄子。
軍勢の先頭にもまた、精霊馬の精霊がいた。



遅れている者はいないか。遅れる者がいては幽世でお留守番の魂が出てしまう。両隣に目を配らせ、前方後方と辺りを見回し、知った顔が揃っているか各々確認するように。





己の相棒がちゃんと居るかはなおの事。数が揃っているか確認をする!番号!





壱!





弐!





参!


精霊馬’Sこと、胡瓜のきゅーさんと茄子のなーさんだ。
二体は精霊馬を指揮する精霊馬であり、盆の時期はオヤブンの足の役目を外れて本来の責務にあたっている。
生まれたばかりで右も左もわからない精霊たちの面倒を見るのが彼らの仕事であった。



今年も粒ぞろいの精霊馬が揃ってよかったな。なんか、脚の多い化け物みたいな奴もいたが……。





え、どこどこ。
……ん?


広い川原に集まった数十、数百の胡瓜を見守るその目に、ふとある光景が飛び込んでくる。
川原の周りは木々の壁だ。その並んだ幹の間を風のように駆け抜ける影が見えた。
見覚えのある赤い衣――




あれは……西方のお嬢?


蛟鬼の存在に気がついた精霊馬’Sだったが、呼び止める間もなく、その風は山を下りて行ったのだったーー。



はぁっ、はぁ。


小屋があった西の頂から山の中腹を抜けて、蛟鬼は東の領地へ辿り着いていた。
山の東は精霊たちの領地。
師匠との諍いがあった日には、蛟鬼は決まってそちら側に逃げ込んだ。
力比べでも口喧嘩でも、どうあっても蛟鬼が師匠に適うことはない。けれど荒ぶる心は負けを認めることは許さない。
原因は何であれ、蛟鬼の心は悲しい思いをしているのだ。



うう~……。





ばーか、ばーか。師匠のばかー!


息が整いかけたところでもう一度吠える。しかし、それだけでは当然、気持ちは晴れない。
特に今回は完全に師匠が悪い。間違いない。蛟鬼は確信した。
だから今回ばかりは鬼である自分が棲むべき領地に戻るつもりはなかった。



……そうだ、家出しよう。


ふと思いつけば、蛟鬼の思考はいとも簡単にそれを是とする。
懐にしまっていた手拭いを取り出すと、地面に広げて、その辺に実っている食べられる木の実を摘んでは乗せていく。
思い付きのまませっせと食料を集めて家出の準備を進めていると、



おう、どうにも只事じゃねえな。蛟鬼?





!!


羽がこすれる音もしなかった。
いつの間にか近くの木の枝にオヤブンが止まっていた。
見られたく相手に見られたくない姿を見られてしまい、蛟鬼は硬直する。
けれど蛟鬼が何も語らず隠そうとしても、盗み聞きをしていたオヤブンには意味がない。



そんな小さい弁当を持ってどこまで行く気だ、蛟鬼?どうせ遠くまでは行けないぞ。





……止めたって駄目だよ、オヤブン。私、今度こそ本気だから。





一体何度目の本気だろうな。……と言っても、今度ばかりは我慢がならねえって顔をしているな。





どうだ、置き土産にオレに何があったか話してから出て行かねえか?





…………。





家出なら、オレとも今生の別れになるだろう?





……ずるい。


蛟鬼は手拭いの結び目から手を離すと、その指で目の端を拭ってから、ぽつりぽつりと今朝の出来事を話し出した。



下の村で人間が祭りをするって聞いたから、私、行きたいって師匠に言ったの。





今度は別に、小さい子を攫うつもりなんかじゃなくて……本当に、お祭りを見に行きたくて。





でも鬼王丸は駄目だって言ったんだな。





でも、師匠は前から人里には下りるなって言ってたから、駄目っていうのはわかってた。





けど、どうしても私、お祭りに行ってみたかった。人の子の言うお盆の祭りを見てみたかった。





……師匠と。





…………。





師匠とならいいでしょう?一緒なら、私が悪さする心配もないし、絶対に傍から離れないって約束するって言った。





でも、それでも師匠は駄目だって言った。師匠は、私の事、絶対に信用しようとしない。





絶対ってのは言い過ぎだろう。いくらなんでもよ……。





絶対そうだもん!


迫力のある叫びに、オヤブンは一瞬圧倒される。
感情は言葉だけではない。蛟鬼の目にも浮かんでいた。



だって、どうして駄目なの?って訊いたら、師匠、私のこと……半人前だからだって。


握りしめた小さな拳が更に力を増す。



師匠はまだ、私のこと、鬼だって認めてくれない。





まだ小さいから?角だって短いから?鬼火も出せないから?修行だって頑張っているのに、師匠はまだ一度も褒めても労ってもくれない。





やっぱり、私は、鬼にはなれないの……?





ば、馬鹿なことをいうな





でも、でも……ふぇえん。





あああ泣くな泣くな。オレはお前に弱いんだからよお……ん?


ついには大粒の涙を流して泣き出した蛟鬼を何とか宥めようと、おろおろとオヤブンが、ブンブン飛び回っていると、蛟鬼の着物の袖から何かが落ちた。
それは煙管だった。当然、蛟鬼の物ではない。そう断言できたのは、その煙管の所有者をオヤブンは知っていたからだった。



これは、鬼王丸の煙管じゃねえか。まさか蛟鬼、お前が持ち出したのか。





ぐすっ、ぐす……そう。師匠の大事な物。無くなって困ればいいって思って。





お前な……そりゃ鬼王丸にとって大事だし困るだろうよ。これは妖怪の頭目が代々受け継ぐ代物だ。


そんな妖怪の頭目にとって何物にも代えがたい煙管を、ただ“困らせたい”ためだけに持ち出したという蛟鬼の言動に、さっきまでの同情の念が引いていく。呆れさえ覚えた。



蛟鬼、いくら何でもその煙管を盗み出したのは悪いことだ。早く返しに戻って鬼王丸と仲直りしてこい。





絶対にイヤ。もう師匠とは一緒に暮らせない。





て言っても、本当は鬼王丸と仲良くやっていきたいんだろう?





…………。





素直じゃねえな……しかたねえ。


頑として煙管を手放そうとしない蛟鬼を、オヤブンはちょいちょいと角で招く。



蛟鬼、ちょいと耳を貸せ。





なんで?





お前にとっておきのマジナイの言葉を教えてやる。





ふんふん……。





……なんか変な言葉。それも外海の言葉なの?





そうだ、聞いたことないのも当然だろう。でも鬼王丸ならわかるはずだ。きっと喜ぶぞ、へへへ。





ふうん?オヤブンって外海のこと知っているし、冬眠だってするし、変なカブト虫だね。





このカクヨノ山の精霊王だからな。





というわけで、いまのマジナイはオレからの選別だ。それを持って鬼王丸の所に帰るか、それともこのまま出ていくかはお前が決めることだ。


蛟鬼は普段、澄ました顔をしているが、その性格は頑固であることをオヤブンはよく知っている。だから、オヤブンが何をどう言おうが彼女の行動は変えられない。蛟鬼が選ぶのだ。



だがこれだけは聞け。お前は鬼王丸の弟子で、妖怪の仲間だ。もうこの東の領地にはいられない。





鬼王丸のもとから家出をするなら、このカクヨノ山からも出ていかなければならねえ。守られるのはもう終わりだ。





わかってる……自分のことくらい、自分で守れる。





そうかい。じゃあ、あばよ。


オヤブンは以外にも呆気なく蛟鬼に別れの言葉を渡した。あまりにも素っ気ない。いままで自分のことを気にかけてくれた態度が嘘のように掌を返されて、心に穴が空いたような気持になる。
――昔、一度だけ味わったことのある寂しい思いだった。
それから数刻が過ぎて――カクヨノ山に夜が訪れた。
陽が落ちて、辺りが暗くなっても、蛟鬼はまだカクヨノ山から外に出られないでいた。
当然だが山の中に灯りはない。灯りをつける手段も持たない蛟鬼は更に山を下り、麓にある人里の灯りを遠くから見ているしかなかった。
いつか訪れた、枯れた沼へと続く獣道のそばに座り込み、明るいうちに集めていた木の実を食みながら独り言が零れる。



今頃お祭り、やっているのかな……。


あの日聞いた、人の子供が言っていたお祭り。
お盆は、幽世に行った生き物の魂を招き祀ることだというのは、あの後きゅーさんとなーさんに教えてもらった。
妖怪にお盆という風習はない。だから蛟鬼がお盆をするには人里に下りるしかなかった。
だというのに……。



師匠のばか……。


ガサガサ…



わっ


もう口癖になりかけた時、まるで呼ばれたかのように背後の木々が騒めいた。
本当に現れたのかと思い、蛟鬼は反射的に振り返って音のした方を見る。
――蛟鬼が間違えたのも無理はない。同時に感じた妖気は、それほど強大ものだった。
けれど振り返った先には木の陰に守られた闇が広がっているだけで……かと思えば、生い茂る木々の向こうで、丸い光が二つ並んで煌めいた。



おやおや。山越えの道中、懐かしい旨そうな匂いにつられて寄り道してみれば、子鬼が一匹いるじゃないか。





しかし、はて?子鬼にの匂いだとは思わなかったけどねぇ?





だれ!!


違う、師匠ではない。
蛟鬼は咄嗟に後ずさる。
暗闇に潜んだ物の怪は、背の高い木の枝を押しのけながら月明かりの下まで歩み出し、その姿を露わにする。
闇に溶けていたのも頷ける常夜色の毛皮。しなやかな四肢。金色の相貌は爛々として、覗き見えた舌は血のように赤い。



大きい……猫。





そうさ、アタシは猫又様だよぅ。





覚えておきにゃぁ、子鬼ちゃん。


ニカッと口を裂いて大猫が笑う。
恐ろしいかな。その大きさは普通の猫など比べ物にもならない。いまは猫背だが、背を伸ばせば木を遥かに超えるだろう。
大猫を目の前にして慄き怯える蛟鬼の姿を見て猫又は機嫌がよさそうに笑う。



おやおや可愛いにゃぁ。アタシが怖いかい?子鬼ちゃん?そりゃそうだろう、アタシは名高い化け猫だものさ。





ほうら、お近づきだ。その可愛いお顔をよく見せてごらん――ッ!?





にゃ、にゃんだい!?
これは、水!?


突然、鼻から温い水がかけられた水嫌いの猫又は、背中の毛を逆立てて激情を表す。
不気味なほど綺麗な金の双眸が睨みつける先には、両手を前に押し出し膝を震わせて仁王立ちする蛟鬼がいた。
問うまでもなく、猫又に水をかけたのは蛟鬼だった。



……どうやら、怖さのあまりにお漏らししちゃったわけじゃあなさそうだね。





アタシは水が嫌いにゃんだ。知らなかったのかい?





……忘れない。





にゃあん?





百年経ってもお前のことは忘れるもんかぁ!!


突然、喉を切り裂くような声を上げたかと思えば、蛟鬼が猫又に襲いかかる。
けれどその小さな体躯は、猫又が振り上げた前足に捉えられ、呆気なく叩き飛ばされた。



ぎゃんっ


湿った地面の上を何度も跳ねながらゴロゴロと転がる。
猫又は蛟鬼を払った前足を舌で舐めながら、ふすふすと鼻息をついた。



にゃぁん……ここで逢ったが百年目、か。生憎、何のことを言っているのかアタシにゃさっぱりわからないよ。





腹は減っていても同じ物の怪のよしみだ。見逃してやろうと思ったけど、どうにも気分が変わったよ。


閉じていれば笑っているような目が、三日月の形に開かれる。暗闇に浮かぶその輝きはまるで研ぎ澄まされた刃のように鋭く、地面の上で苦しむ蛟鬼の姿をとらえる。



蠅のように飛び回っている野菜の精霊だけじゃ、どうにも腹は膨れなかったからにゃぁ。





その痩せた体じゃ食いごたえはにゃさそうだけど、ちょっとは腹の足しになるだろうさ。





それじゃ、いただきまーす。


つづく
