お母さんが死んでしまった。
お母さんが死んでしまった。



お母さんはね、あの海の一部になったの。でも寂しがることなんかないわ。貴女のお母さんは、海からずっと貴女の事を見守っているのだから





お母さんは海になんてなってないよ





…………どうして?





だってお母さん、死んじゃったんでしょう?





………………





死んだらどこにも行かないんだって、お母さんゆってたよ。死んだら何も無いって。だからお母さん、今を精一杯生きるんだってゆってたもん。





………………





だからお母さん、もうどこにも居ないの。





………………


それからしばらくして、あの子、生意気な子ね、という声が遠くから聞こえてきた。こっちは気を遣ってやっているのに。うっかり声を大きくしてしまっただけなのか、はたまた私に聞かせたかったのかは分からない。私はぎゅっと目を瞑った。お母さん、と心の中で問いかけた。お母さん、どこにいるの。お母さん、会いたいよ。私を抱きしめて。私を守って。
応えはない。
私は涙を拭って立ち上がった。
ただ、この家には居たくなくて、私は外に出た。雨の止んだばかりの空気が気持ち良い。私はその足で、道路を一本跨いだ先の海辺へと向かった。海は私のお友達だ。何も言わずにただ隣にいてくれる存在。
私はサンダルを脱いで、オフホワイトのワンピースを膝上まで捲し上げて、海へと入った。海は生ぬるく、潮風の匂いが濃い。夜を吸った玄い海を見つめ、私は思った。このままこの闇に溶けてしまいたい。何者でもなくなってしまいたい、と。
腕が疲れて、両手を降ろした。ワンピースの裾15センチが海水を吸って波にたゆたう。私はそこから2歩、3歩進み、止まった。これ以上は進めなかった。
お母さん。心の中、玄海に向かって呼びかける。お母さん。お母さんが死んじゃっても、私は生きてゆくからね。お母さんの後を追えない、心の弱い自分でごめんなさい。
涙がぽろりと海水に吸い込まれたときだった。



そち


声が、聞こえた。闇に溶ける優しい声。この小さな村で聞いたことのない女の人の声であった。どこから聞こえたのか分からない。しかし直感で、自分に話しかけられたことを理解した。私は怖くなって海水から身を引き上げた。水を切る軽い音と、砂を踏む重い音が耳に残る。



これ、かように怯えるでない


声は、笑いを含んでいる。私は恐怖に支配されつつも周りを見渡した。私に話しかけているのは、だぁれ?……鼓動は独りでに速くなる。



こちらじゃ……海を見よ


私はハッとして海を振り返った。女の人が、いる。あり得もせぬことに水平線に身体を横たえ、気だるげに私を見ている。
とても綺麗なひとであった。その美しさは、ただそこに存在するだけで、場を支配した。私は本能でこの人には服従せねばならないと思った。そのくらい美しい、明らかに人間でない何かが海から私を見ていた。私は崩れ落ち、砂浜に両足をついた。



気を楽にせよ


できるはずがない、と私は心で応えた。



枯木燃子





?!





3日前に母親を亡くしたそうじゃな





…………はい…


私は掠れた声で応えた。



ふぅむ。7歳になったか。大人が思っているより敏い子じゃ





…………





母親がいなくなって寂しいじゃろう





…………はい





愚問か。……ふぅむ


女神………そう、直感で理解した海の女神は、考え込むように顎に手を添え、伏し目になった。月明かりが彼女を照らし、長いまつげの影が彼女を縁取る。彼女は、言った。



お前に渡したいものがある。否、返さぬばならぬものというべきか





……………?





受けとる気はあるか


私は夢中で頷いた。頭がぽぅっとして、目の前の景色は全て遠くて、すべてをテレビを介して見ているかのような感覚に襲われた。



そうか。その意思あらばもうお前のものとなっておるはずじゃ。それ………試しに、両手で砂と海水を掬ってみよ


私は言われた通りにした。手から水が零れ、ぽちゃぽちゃと軽やかな音が足下から響く。



そう……それで目を瞑るが良い。呼べるはずじゃ、魂を


暗くなった瞼の奥。敏感になった耳に、ポンッとなにかが弾けるような音が届いた。両手からポップコーンが弾けるような感覚がする。ぽろぽろぽろ。私は怖くなって、手を引っ込めてしまいたい衝動に駆られたが、身体の緊張がそれを許さなかった。目なぞ開けてられず、瞼に思い切り力を込めた。



おっ、出来たようじゃな





…………?





まぁ、悪くない出来であろうな。ほれ、そちも見てみよ


私は目をつむったままだ。それでも瞼の裏で、自分に影が落とされるのを感じた。何か、私よりも背の高いものが、私の前に立ったときの感覚。



ここは………


耳に残るテノール。私はおそるおそる目を開けた。



人間の、子供…………


美しい男が、月を背に立っていた。
目鼻立ちのくっきりとした、ギリシア彫刻のような造形美を感じさせる顔貌の男である。男のすみれ色の瞳が私を真っ直ぐと見据えた。幼心に私はドキドキした。



海神様、これは?


寝起きのような、掠れた低音が耳に残る。



久しいな。息災であったか





息災でしたとも。それで一体どういうことなんです?





そう、話を急かすでない。会話を楽しむ余裕なくして女にモテんぞ





女にモテずとも結構。魚たる私のつがいは『メス』ですから





ああもう、相変わらずじゃのう。ああいえばこういう。それでは端的に用件を話すとするか。そこに人間の子供がおるじゃろう。お主にはそれの保護者になってもらいたい





…………何ゆえ





それは今日より海神の巫女じゃ。この海原において妾の次に尊いものじゃ





先代は





死んだ。三日前のことよ





!





それは先代の忘れ形見よ。目元なぞそっくりじゃな。……先ほど少々突いてみたが、素質は十分。くれぐれも丁重に扱え





保護者というのはつまり、この砂粒のような小娘を海神の巫女として育てろという意味でしょうか。私が?





左様。人数が足らぬのなら娘に言え。もう既に人形(ヒトガタ)は作れる





それでは、この身体は





そこの、お前が言うところの砂粒のような小娘がつくった。言うなれば小娘は今生のお前の母じゃ。母を大事にせぬ子がどこにおる。子が母を育てるというのも変な話じゃが、彼女を個人として尊敬し、この大仕事に誇りをもってこの任についてもらいたい





……………





……………





……………良いでしょう





よろしい。さて、燃子や





は、はい





聞いておったな。お前は既に人ならざる者よ。神の領域に一歩踏み込んでおるのじゃ。お前の母もかやつてはそうであった。お前は海神の巫女として己の能力を磨くことに邁進せよ


私ははいと答えるしかなかった。お母さんが死んでしまってよすがを無くて何もかも覚束なくて、そんなぼんやりとした昏さの中で、唯一の
やるべき事
が与えられたのだ。やっと私も踏み出せる。そんな気分だった。



さて。海神の巫女たるもの、ヒトガタを完璧に作ってこそです。こんな、中途半端な出来そこないではなくね。ご覧なさい。


そういった男の右手は無く、あったはずのところからは、海水がぽたぽたと滴っている。



こればかりは量をつくって精度を高めるより他ありません。とりあえず、使い勝手のよさそうな、人間の男を完璧に作るところから始めましょう





さて。人間の男が大勢消えたり現れたりしても不思議でない空間は………いろいろありますが、どういう体にしましょうかね





ほすとくらぶ、じゃ





ホストクラブぅ?





妾が人間なれば行ってみたい場所ナンバーワンじゃ。それにこれは持論じゃが、若いうちに異性に触れ、慣れておくに越したことはない♪





俗なことを





せっかく見目良いヒトガタのお前ができたのじゃ。活かすより他あるまいて。これを適材適所と言わずしてどうする。





それに海神の巫女たるもの、社会に貢献してこそじゃ。それは海でも陸でも同じこと。生命を輝かせよ、燃子。我ら折角この地球に生まれたのじゃ。生を謳歌する手伝いをせよ





イケメンまみれのホストクラブを作ることで、な♪





台無しです


私は笑った。
