宵闇。音は無い。
月のみが光るその晩に兎どもが群がっている。
そのうちの一羽が、耳をぴくりと震わせた。

なにか、来ている

兎が存外、低い声で言う。

来ているね

他の兎が呼応する。

人間のオスだ

男というやつだ

またか

まただな

姫に夜這いだな

しかし初めてみる顔よ

各々どうみる

器量はよし

体躯もよし

忍ぶ心意気やよし

目元など、凛として良いではないか

おうとも

見よ

おうおう

あゝ

なんと

躓きよったな

少しばかり鈍くさいか?

ふぅむ

なぁに、垢抜けぬほうが姫様の好みよ

違いない

では門を開くか?

開こう

来るがよい、若人よ


兎どもが不敵に笑った。
望月が煌々と光っている。

◆◆◆◆◆◆◆

いかにも古めかしい音を立ててひとりでに目の前の裏戸が開いた。
先ほどまで押しても引いてもぴくりともしなかったにも関わらず、である。

歓迎された………ということか?


花景(はなかげ)は鼻を鳴らして笑った。

花景は今日、深窓の姫君に夜這いをかけるべくここにいる。此処の深窓の姫君―――名が分からぬ故、世ではかぐやの君と呼ばれていた―――は、その名に恥じぬ絶世の美女であるという。
お伽草子のかぐや姫と違うところは、このかぐやの君は大層慈悲深く、男どもによく情けをかけるということである。加えてかぐやの君に情けをかけられた男は、大層男ぶりが上がるのだそうな。

これはゆくしかないだろう


花景は思わず舌舐めずりをした。かのかぐやの君に情けを掛けられれば、己の男ぶりに磨きがかかるし、箔もつくというものだ。花景の心は弾んでいた。
幸いにも、今宵は先刻まで雨が降っていたせいか、競う相手は居らぬようだった。

邪魔するぞ


腐った戸を後ろ手に置いて、花景は顔を上げた。
簡素な庭であった。
荒れてはいない。
しかし代わりに気の利いた花もない。
野花がぽつぽつと咲きこぼれている庭に、香の匂いがふわりと満ちている。

花景は持ってきていた梅の枝を握りしめた。

痛っ……


梅の枝の瘤が、掌に食い込んだ。
そこで気が付いた。
どうやら、柄にもなく緊張しているらしい。
そんな自分に気が付いて花景は小さく笑った。

庭をしばし歩くと、噂通り姫の住まう離れがあった。

花景は見た。
楊貴妃もかくやといった美しい佇まいの女性が、縁側で夜を涼んでいた。
世には、こんなに澄みきった美しさを持つ人がいるのか。
花景は思わず息を呑んだ 。

かぐやの君…………



まさにその名に相応しい。
花景はふらふらと引き寄せられるように歩いた。
足元で玉砂利が鳴る。
かぐやの君がこちらを向いた。

だれ………?


りんと鈴の鳴るような声だった。
花景は至福を感じた。

姫よ………


花景はひらりと縁側に飛び乗った。

どうか私の名を聞いてくださるな

しかし、姫が私のことをその美しい唇で呼んでくださるのであれば……どうぞ紅梅とでもお呼びください


花景は持ってきた梅の枝から一輪手折ると、姫の耳の上に優しく梅を挟んだ。

やはり、姫の真珠のように白い肌には赤が似合います

姫……かぐやの君よ……今宵は満月ゆえ、貴女が天界に帰ってしまわれるのではと心配で、私は参りました

間に合ってよかった。しかし、姫に帰る意思がなくとも、使いの者が無理に貴女を連れ帰ってしまわぬか心配だ

だから……今晩、私に姫様を守らせてはくださいませぬか


花景の指が、姫の頬を愛おしげになぞった。
見た目通りに肌はなめらかな触り心地だ。
そのまま指で、姫の唇を優しく、感触を確かめるように2、3度押す。
姫が目をつむった。花景が顔を近づける。姫の髪が香る。あゝ良い匂いだ―――――

――――――バシッ

一瞬、何が起こったのかわからなかった。
気が付けば、花景は体制を崩し、後ろ手をついていた。

どうやら姫にはたかれたらしい。

花景は混乱した。しかし、考えた。
照れ隠しであろうか。
それにしては多少力が強かった気もする。
が、見知らぬ男に迫られたのだ。
姫もさぞや不安であっただろう。

――――――悪いことをしてしまった。

姫よ、どうか怖がらな―――

おやめ


姫が凛とした声で言った。
意思の強く滲んだ声だった。
花景は姫の顔を見た。

ごめんなさいね


姫がふわりと微笑んだ。泣きそうなくらい美しい笑みだった。

今宵は、お帰りいただけるかしら


花景は、呼吸の仕方を、忘れた。