重い空気を消し去ろうと窓を開ければ冷えた空気が頬を霞める。
重い空気を消し去ろうと窓を開ければ冷えた空気が頬を霞める。



寒い……


息を吐けば白く色付いた。



うん。寒いね





あなたも、寒さを感じるの?


時間の流れも感じさせない場所だと話していた。唯一の彩りが呪いの芽なんて皮肉だとも語っていた。だから気温の変化があるわけもないと思いこんでいたのだが。



ああ、そうじゃなくて……。気持ちの問題かな





アージェ、どこか苦しいの?





平気だよ


安心させるような表情なのに、不安はちっとも消えない。



ここは寒いから。ちょっと、温もりが恋しくてね。君の笑顔が太陽みたいだからかな。ごめん、ちょっと感傷的になってた





わたくしが太陽? 変わったことを言うのね。自分の評価は理解できているわ。無理して褒める必要はないのよ


しっかりと否定しておくけれど、リーゼリカの頬は染まっていた。嬉しくないとは言えなかった。



君は素敵な女の子


自然とリーゼリカの手は鏡に伸びていた。所詮アージェは鏡の中に、そうしたところで触れ合えるわけがない。けれど手を伸ばさずにはいられなかった。



これで、少しは感じられる? あなたに、触れられたら良かったのに……





ねえ、もっと触れてほしいな


珍しいアージェからのお願いに心が揺れる。
もっと? これ以上?
どうしたって届かないのに、アージェが望んでいるなら叶えたいとさえ思う。



リゼ。君が好きだよ


突然の言葉に頭がついていかなかった。まっすぐに見つめられては動けない。視線を逸らせば簡単に終われるのに、瞬きさえも忘れていた。



鏡の精からこんなこと言われても困るかな。ごめんね、忘れて





そんなこと! わたくしとても……嬉しい、ですわ


頬が赤く染まっていくのを感じるほどに動揺している。たった一人の友達が、友情以上の好意を抱いてくれた。好意を寄せられて嬉しくないわけがない。



わたくしも同じ気持ちでしたもの……


もうとっくに惹かれていた。鏡相手に何をと笑われても良い。そんなことリーゼリカには関係なかった。



ねえ、哀れな鏡の精からのお願いだ。口付けを、くれないかい





なっ!


驚くような申し出に躊躇う。
けれどいつも助けられてばかりの自分にできることなら叶えたい。たった一人、リーゼリカの名を呼び寄り添ってくれた人の願いを――
思えば……
良いように誘導されていたのだろう。
人から愛されたことのない小娘を惑わすなんて、さぞ簡単。少し甘い言葉を囁けば良いのだから。
鏡に触れる。
そこは冷たいのに頬だけが異様に熱かった。
胸の鼓動が煩くて、たまらず目を閉じる。そうしてしまえばアージェが本当にそこにいるような気がした。
冷たい口づけだった。
当たり前だ。堅くひんやりとした感触が唇に伝う。
唇を離すまでの時間がとても長く感じた。
ははっ、なんて単純な子だろう!



え?


あざ笑うように冷たい囁きだった。
驚きに目を開けると視界が揺れる。
手に触れる感触が変わった。指の間に食い込むのは、固い男の手。



エスメラ相手ならこうはいかないよ。君って子はどこまでもエスメラとは違うね





アージェ?


強く捕まれている。



捕まれる? そんな、彼は鏡の中に!


では誰が――
混乱したリーゼリカを置き去りに事態は進行する。
強い力で押され床に体を打ち付けた。
明かりを遮るようにリーゼリカを押さえつけているのは、見間違うはずもないアージェだった。



あなた、鏡から出て!?





甘くて愚鈍なお姫様が口付けをくれたからね。ありがとう


とびきりの笑顔でアージェが告げる。
アージェの言葉だ、もちろん全て。甘くて優しい彼の声、なのにいつもと違うのはなぜ?



出ら、れるの……





言ったろ? お姫様のキスは甘いね


残酷な舌なめずりをして嗤うのは誰?



どうして今まで……





黙ってたのかって? 憎い相手に話す義務があるのかい?





ずっと、わたくしが憎かった……?


唇が震えた。何度も顔を合わせてきたのにまるで別人のようで、体は冷えていくばかりだ。



ああ、憎いエスメラ。なのにエスメラはもういない!? 残ったのは憎い相手の娘だけ、なんて残酷な結末だろうね。悔しいよ……。だから――





――んっ!?


乱暴に口付けられる。
初めて見上げるアージェは別人のようだった。
鏡越しとは違う、確かな感触があるのに冷たいだけだ。お前など嫌いだと言われているようでリーゼリカの心を乱す。



きっと、これが本当のアージェ……





ははっ! 君、僕を信じてくれただろう。信じていた相手に裏切られるって、どんな気分かな?





わたくしあなたに騙されたのですね


心が握りつぶされたようだった。
痛かった。苦しかった。
それなのに……



甘い言葉を並べただけで、君は簡単に絆された


突き放すような苛烈な怒りだ。
けれど彼の瞳に映る虚しさばかり……



アージェの方が苦しそう……





悔しいな。あの女は死んだのに、僕はまだ囚われている





囚われる?


アージェに裏切られてリーゼリカは傷ついた。けれどそれ以上にアージェはが悲しそうに映るのだ。



泣いているみたい……





かわいそう、ですわ





同情かい?





あなた、わたくしと同じですもの





……そう、だね。悪女の娘、か


今なおエスメラに囚われている。なんておそろしい人だろう。



ごめんなさい、アージェ





君が、何を謝るって?





わたくしいつも自分のことばかりでした。あなたは優しいから甘えてばかりいたわ。ずっとあなたを追いつめていたのね。憎かったでしょう、わたくしに笑いかけるなんて! 辛かったのでしょう?





へえ……





こうなってみて、あなたの笑顔が偽物だと良くわかりましたわ





僕の笑顔は不評かい? 完璧に笑えていただろう?





そうですわね。哀れな王女は簡単に騙されましたもの





だよね。よく耐えたほうだと思うけどな





けれど本当の感情に触れてしまえば良くわかります。あなたの笑顔はいつも優しかったけれど、こうしている方が心を伴っているわ





知った風なことを言うね





もう三年も、ずっとあなたを見ていましたもの





三年か……。こんなにも、僕は君と過ごしていたのか……





三年で、こんなわたくしにも街で友達ができましたわ





知ってるよ。毎日、飽きもせず話しかけてくるからね


そのすべてがアージェにとっては煩わしかったのだ。疎まれて憎まれて、結局リーゼリカはここでもエスメラの娘にすぎなかった。
けれどここで終わりにしてはいけない。愚かな女だったといくら後悔したって遅い。
アージェの本心を知ってどうするのか、どうしたいのか。



おかげで知ることができました。あなた、友達が困っていれば助けるのに理由はいらないと話していましたけれど、その通りでしたわ





さっきから何を言ってるのかな? まるでまだ友達でいたいって聞こえるけど





まるでではなく、そう言っています。わたくしが騙されたのは、あなたが自分にとって都合の良い相手だから。けれど友達はそういうものではありませんもの。あなたが何を怒り過去に何があったのか知りたいのです。互いに助け合うのが友達ですわ





僕、君を傷つけるつもりだけど? ずっと、この機会を待っていたんだから





……わたくしまだ何もされていませんわよ! キ、キスはされたけれど、それだけですもの!





それだけ、ねえ……。随分と男慣れしてるんだ





全部見ていたのに酷い言い草ですわね


友達さえいないことはお見通しのくせに。



僕を赦す? まだ友達でいたいなんて、甘い子だ。本当……





エスメラとは違うかしら


続くはずの台詞を奪う。
アージェが諦めたように肯定すれば嬉しいと微笑んだ。



最高の褒め言葉ですわ


互いに譲らない沈黙があった。
やがて拘束されていた力が緩み、アージェは手を差し伸べてくれる。



僕は鏡の精なんかじゃない。ただの人間だった、おそらくね





おそらく?





鏡から出たければ命令を聞けと、それ以前の記憶はない。自分が何者かさえわからない。唯一覚えていたのは名前くらいで、忘れないように必死だった。忘れてしまえば二度と戻れないような気がしてね。だから最近は、君が呼んでくれて嬉しいよ





わたくしが頑張れば、あなたも助けられるのかしら





そうだといいね。願望にすぎないけど





悲観するものではありませんわ。あなたが外に出られたのは、わたくしの力ではないかしら?





それは……





アージェが外に出られたらと強く望みましたの。こんなこと初めてですし、少しは成長しているのではないかしら?





復讐のことばかり考えていて、盲点だったよ……





二人で自由になりましょう





ああ、本当に。君は――


まるで鏡が砕け散るような音を立て、アージェの姿は消えた。いわく、奇跡の時間切れらしい。



エスメラとは違うね





また外に出たければ協力しますわ





ええと……。わかってる? それ、鏡越しとはいえ僕とキスするってことだからね。できるの?





キ、キスくらい、友達のためなら!





それは有り難いけど……。僕は友達の将来が心配だよ





わたくし誰にでもキスするような優しさは持ち合わせていませんわ。相手がアージェだから、そうしたいと思うのよ





どうして僕だといいんだい?





あ……あなたがアージェだから、ですわ!


わざと明るく取り繕って誤魔化すことしかできなかった。



わたくしが気持ちを伝える資格はない


相談に乗ってくれて、助けてくれて。たわいない話を聞いて相槌を打ってくれる。笑いあって、今日の出来事を話す。
そんな当たり前のことがリーゼリカにとっては初めての体験で、自然とアージェに惹かれていくのも仕方のないことだった。
優しくて、都合がいいから――
自覚して己の浅はかさを恥じた。



利用しようと企んでいたのですから優しいのも当然ですわね


表面上の彼しか知らなかった。
彼の事情を知り、むき出しの感情に触れて初めてアージェという人を知れた気がする。これからもっと知っていけたらと思う。



いつか互いの立場も関係ないところで同じ言葉を聞けたら……





……根拠も何もありませんけれど。わたくしエスメラ人の娘ですもの、いずれ同じことができるはずですわ! ですから諦めないでくださいね


リーゼリカがどれ程エスメラと比較されるのを嫌うかアージェは知っている。だからこそ目を見張った。



君……





わたくしたちの関係はエスメラで成り立っている。あなたと出会えたことがエスメラのおかげだとしたら、わたくしはようやく受け入れられる気がするわ


アージェにとってはただの災難でしかないというのに、それを嬉しく思うなんて最低だ。
なのに募る感情を抑えきれない。
歪でもいい。
裏切られてもいい。
本当のアージェに触れられたことが嬉しかった。



どうしたって、わたくしはアージェが好き


好きだと告げたら彼はどんな反応をするだろう。
けれどリーゼリカが告げることはない。
この気持ちは胸に秘めておこう。
いつか鏡なんて関係ない場所でアージェと会えたなら、伝えたい。
エスメラも、その娘という身分も関係ない場所で会えたなら……



今更何をと思うだろうけど、最初に言ったこと……君に会えて良かったのは本当だよ、リゼ





本当の感情に触れたからこそ、嘘と真の違いがわかると言いましたわね。ですからその言葉だけで十分ですわ!


また背負うものが増えた。
国と、自分の未来と、アージェの未来――
けれど重荷と呼ぶほど圧し掛かりはしない。より強くなれた気がするから。



わたくし幸せ者ですわね


安っぽい幸せね
喜びは否定され踏みにじられた。
彼の言葉ではない。
けれどそこにいるのは彼だけだった。
