いかばかり うれしからまし もろともに
 恋ひらるる身も 苦しかりせば (鳥羽院)



…どれほどうれしいことでしょうか。

思い慕われる人の方も、同じように苦しまれているとしたなら。

あの婚礼の日から早一月。
夢の都には、梅雨が訪れていた。

優華

おはようございます、戴輝(たいき)さま。

その日もひどい雨で、肌寒かった。
 
あたしは朝早く起きだすと、身支度を整え、戴輝さまのもとへと向かった。

優華

お加減はいかがですか?

そう尋ねながら、戴輝さまの額の布を取りかえる。

最近戴輝さまはご病気がちだ。
3日ほど前から熱を出され、それが今日まで続いている。

…戴輝さまは季節の変わり目にはよくこうなるのだと笑っておっしゃっていたが、こう何日も続くと不安にもなる。

たった今取り替えた布も、もうぬるい。

戴輝

…来なくてもよいと、そう言ったじゃないか…

戴輝さまは気だるそうに起き上がり、そう言った。
あたしはその背中を慌てて支える。
 
戴輝さまは、ご病気になられた後もあたしの心配をしてくださり、うつるといけないからと、来るのをやめるよう言われたのがつい昨日のこと。

…とはいえ、だまって部屋にいることなどできない。

優華

…そんな哀しいこと、おっしゃらないでください。

あたしはたまらなくなって、戴輝さまの腕に抱きついた。

…この方のもとに嫁いで、自分はずいぶん大胆になってしまったものだと思う。

蓮にいた頃は、殿方に触れることはもちろん、言葉を交わすことさえできなかったのに。
 
…今は、もっとこの方に触れていたい…

戴輝

優華(ゆか)

名を呼ばれた。
そう思った途端に、そっと体を引きはがされてしまう。
 
あたしはさみしさを感じたが、だまってそれに従った。

戴輝

…いけないよ

そんな風に優しく諭されれば、なにも言えなくなってしまう。
 
そういうところが、この方はずるい。
 
この方に嫁いで一月。
はじめの頃よりは、この方のことを理解し、そしてこの方のことを愛するようになった。

…しかし、あの婚礼の日以来、この方はあたしに触れようとはしてくださらない。

交わす言葉も必要最低限のもので、あたしには、それが少し寂しい。

…この方は、あたしを避けているのではないかと思おうことさえある。
 
…たとえばそう、他に思う方がいらっしゃるとか――

優華

はい

あたしが、寂しさを押し殺しつつ彼から手を離したその時。

春乃

戴輝――ッ

凛とした、女性の声が響き渡る。
 
あたしは、その声に自分の体がこわばるのを感じた。
 
その次の瞬間、襖が大きく開け放たれる。
現れたその方は、予想通りの方だった。

戴輝

――姉上

廊下から吹き込む風に、その方の艶やかな黒髪が揺れた。

白く透きとおる肌、鋭い光を宿した黒曜石の瞳。

着ているものは白の小袖に紅の袴というなんとも質素すぎるものだったが、それがかえってその方の――まるで、刀の切っ先のような凛とした美しさを際立たせるようだった。
 

この方のことはよく知っている。
蓮にいた頃からこの方のことはよく聞いていた。

こちらに来てからは、なおさらこの方のことを耳にするようになった。


この、戴輝さまとよく似た――しかしながら、まとう空気のまったく異なるこの方のことが、あたしは正直苦手だった。

春乃

どうだ、戴輝。具合の方は。

どかっとわざとらしく大きな音を立てて座った。
…胡坐をかいている。
そう、このようなところも苦手なわけの一つだ。

戴輝

だいぶ、よくなりました。
…姉上にまでご心配をかけてしまい、申し訳ありません。

春乃

嘘を申すな。

頭を下げる戴輝さまを制して、春乃(はるの)さまはその額に触れた。

春乃

…まだ、熱があるではないか。

戴輝

申し訳ありません。

戴輝さまが、春乃さまの手を振り払うことはない。

あたしには触れさせてもくれないのに、春乃さまはいいのだろうか?
…こういうところも、許せない。

春乃

…おい、そこの。

春乃さまはこちらを見もせずにそういうものだから、はじめ自分のことだとは思いもしなかった。

春乃さまが切れ長の目でこちらを見てきたことで、はじめて気がついた。

優華

ぁ、は、はいっ

思わず声が裏返ってしまい、あたしは恥ずかしくなってうつむいた。

戴輝さまの押し殺したような笑い声が聞こえた。
…なにも、笑わなくてもいいだろうに。

しかしそんなあたしの抗議の言葉が、声に出されることはない。

目の前の、この愛しい人にそっくりの美しい人は、あたしが戴輝さまと言葉を交わすことを嫌う。

あたしに戴輝さまが笑いかけたりなどすると、この人は決まって恐ろしい目であたしのことを見てきた。

このおふたりが、ふたりで支え合って生きてきたことは聞き知っている。

だが、だからといって、ここまで執着するとは異常だ。

…そう、この美しい人は、それほどまでに戴輝さまのことを愛しておられた。

春乃

わかっているであろう?
…早う、この布を濡らして参れ。

そう言って春乃さまが布を手渡してくる。
…それは、さきほどあたしが換えたもの。

あたしは、そう言うこともできたはずだ。
でも、そうはせずに、黙って部屋を出て行った。



あのおふたりは姉弟だ。
そして、あたしたちは夫婦。

関係が違うのならば、接し方が違うのも当然だ。


しかし、そうはいっても納得できなかった。

部屋の中から、楽しげな声が聞こえてくる。


…きっと、春乃さまには笑顔も見せているのだ。


あたしにも笑いかけては下さるけれど、彼の笑顔はなんだか、つくりものの笑顔のような気がすることがある。


あたしにも、気を遣わずに、本当の笑顔で、本当の気持ちを言ってほしい。


それなのに、彼が気を許すのは春乃さまただひとりだ。



あたしだって、おなじくらい貴方のことが好きなのに。

2.「決意の雨の日」(1)

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