すべてを諦めた自分におあつらえ向きと思える煤けた看板、

角の折れたユニコーンの石像が店先にある純喫茶ペガサスに入った。


だがしかし、

そこでもあのけたたましい競馬実況中継の音がする。


奥を覗くとこの年季の入った店に不釣合いの最新32型液晶テレビと、

その前のテーブルで新聞片手に4~5人の老人たちがニコニコしながら赤ペンを握り、

テーブルに競馬新聞と場外馬券を所狭しと並べている。


まずいと思ったがすでに

老主人

いらっしゃいませ

とか細い白髪の老主人に声をかけられたので、

入店を余儀なくされた。


コーヒーを注文した後で後悔した。


先ほどの負けのせいで財布にはお金が157円しか残っていない。


強心臓そうに見えるが本当は人見知りの経華に、

コーヒー一杯のために

織原経華

銀行で下ろしてくるので、ちょっと失礼します!!

が言える心の余裕はなかった。

織原経華

どうしよう








そうこう悩んでいるうちにこころなしか正露丸の匂いがする不味そうなコーヒーが運ばれてきた。


カップの中で揺れる底の見えない漆黒が今の自分の状況を暗示する占いのように見えて、

目を伏せた。


それでも競馬実況が煤けた10席足らずの狭くて昼間からダウンライトの店内では賑やかに鳴り響く。


人によってはノスタルジーを感じるシチュエーションかもしれないが、

打ちひしがれた彼女にとっては子供のころ、

正座の足のしびれを我慢しながら聞いた法事のお経を思い出させる苦痛だった。


どうしようとティーカップを両手で握りながら彼女が困り果てていると、

どこかで見覚えのある長身の黒猫背がヌッとコーヒーの表面に反射させながら手前を通り過ぎていった。


その後ろ姿は老人たちの元へと寄っていき、

テーブルに買ってきた場外馬券を広げた。

小暮忍

番号間違いないか確認して。俺この前会場のマーキング間違えたからさ。それが実はまさか当たっちゃったんだけどね

老人A

悪いねえ

老人B

ありがとね

老人C

いいねえ

老人D

やっぱ小暮くんは持ってるよねえ

と盛り上がった老人たちと聞き覚えのある長身の名前は一斉に肩を揺らした。


どうやら老人たちの追加馬券を長身の男性がお遣いしてきたようだ。


そのお礼なのか老人たちが100円ずつカンパしあって先生と呼ばれる男にコーヒーを奢った。

小暮忍

悪いねいつも

とニヒルな口調で言ってから老マスターが持ってくるコーヒーカップを手に取り口に運んだ。


その刹那、

隣の席からニュッと白い手が男の腕をがっしり掴み叫んだ。


小暮はびっくりして私服にコーヒーの殆どを零してしまう。

織原経華

捕まえたぞコグレ~!

警部口調で経華の白い手が掴んだ黒い袖は紛れもなく猫背の整体師、

小暮忍のものであった。


喫茶店内の競馬ファンの老人たちのざわめきや老主人の舌打ちも気にせず、

小暮に詰め寄る経華。

小暮忍

君はたしかあの時の

織原経華

あなたもあの時の方ですよね!?

平行線の二人に対して老人たちがスローモーションで野次馬する。

老人A

あ~、あんたが最近話題の色白美人だろう?

老人B

いい女だねえ。元気で胸もあって…俺も、もうちょっと、若けりゃなあ

老人C

ちょっとってお前さん。それ何十年前の、ちょっとだい?

老人D

小暮君も隅に置けないねえ。女も競馬も、良いウマ当てるよお

ゆっくり下世話に笑う老人たち。


しかし、

興奮する経華の耳には入らない。

織原経華

小暮先生は本当はあのお店とは関係ない部外者だったんですよね?という事は私をあの変な店長から助けてくれた恩人ですし。施術代をお支払いしないと

経華は再びオケラな自分の財布を思い出した。

小暮忍

このクリーニング代で相殺でいいよ



経華は言われて初めて自分のせいで黒くずぶ汚れた小暮のカーディガンに気づいた。


慌てて拭こうとするが、

その反動で今度は小暮が床にコップを落として割れてしまう。


愛想の無い老主人が無言で片づけに入る。

織原経華

ひえー!申し訳ありませんでした!!

小暮忍

落ち着いてくれ。君は一歩も動くな。もうすぐメインレースが始まるからその間は黙っててくれないか?

経華は申し訳なさそうに元の席に座った。


どうせ競馬は見ないし、

話しかけては迷惑だと思ったので言いたいことをまとめて書き出しておこうと手帳を出した。


レースが始まった。


小暮と老人たちは食い入るように液晶テレビを見ている。


老主人はシレッと見ている外見とは裏腹に、

カウンター下に念入りに書き込んだ競馬ノートと細かな馬券を並べて手を震わせていた。


経華は耳を塞いでレースを聞かないようにした。


白熱すればするほど、

経華にはかつての落馬の記憶が蘇る。


高校入学一か月目。


乗馬部入部初日の落馬骨折のせいで入院。


一学期に友達が作れず高校デビューに失敗した。


そんな冴えない黒歴史を思い出してよりいっそう落ち込んでいるうちにそのまま疲れで気を失うように寝てしまった。


レースは一番人気の不発でやや荒れて終わった。


単勝で3390円。


3連単で68850円195番人気のねらい目だった。


老主人はショックでカップを二枚落として割った。


お客さんに見えないカウンターのゴミ箱に外れ馬券をビリビリに破り捨て始める。

老人A

こりゃあ、高く付いたな~

老人B

でしょうね

老人C

いやあ、参ったねえ~。母ちゃんに怒られる~

老人D

それでは今からパチンコ海物語で逆転といきますかな?

老人A

そりゃ名案ですな~

呆けた笑いをしながら帰り支度する老人たち。


小暮が軽く手を振って

小暮忍

じゃあまた来週

朗らかに老人たちは去って行った。


急に閑散としはじめた店内で小暮は中南海の火を燻らせると、

テーブルに突っ伏して寝ている経華に気づく。


軽く肩を揺らすとまた左肩のブラ線がすっと肩から抜ける。


前回の施術から一週間で殆ど背骨が横に歪んでしまう側弯症(そくわんしょう)が戻ってしまっている。

小暮忍

これはなかなか落とせない重症だな

経華の手帳から場外馬券がはみ出ているのに小暮は気づいた。


手に取ってみるとそれはまさにこのメインレース結果1‐6‐5の3連単的中券であった。


彼女が外れ券だと思っていた馬券は、

レース番号をマークし間違えた事によって当たり馬券へと変身していたのであった。

小暮忍

おめでとう

目が覚める経華に馬券を渡す小暮。

織原経華

また寝ちゃいました、私?この記念外れ馬券が何か?

小暮忍

いや、当たってるからさ。見事な3連単一点買い

経華は小暮が律儀に見せるiPhoneのJRAのHPを見て思わず、

小暮の両手を掴み小躍りした。

織原経華

余り物に福来たる!!


続く

プレッツェル・ロジック その4

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