私の部屋にアダルトグッズが転がり込んで一週間が経過した。
 事情を知らない人間からすれば何を言いたいのかわからないと思うけれど、要は人間になったアダルトグッズが私の部屋に住むことになったのだ。もうますます意味がわからないだろう。

麻子ちん、今日は早く帰れそう?

まだわからないけれど、多分大丈夫じゃないかな?



 月曜日の朝、玄関に立った私をいつものように同居人が見送りに来る。
 私がオルちゃんと名付けたこの子との共同生活も、だんだんと慣れてきた。毎晩『お花摘み』を要求してくるところと、エネルギー補給が充電であることさえ除けば、なんてことない普通の女の子なのだ。


麻子ちん、今日はお弁当とかお惣菜とか買ってこなくていいよ。私、料理に挑戦する!

お、ついにきたね。でも大丈夫? ちゃんと食べられるもの作れる?

大丈夫だよ。こう見えてずっとイメトレしてたからね

料理のイメトレって意味あるのかな……まあいいよ。期待せずに待ってる。食材や調味料は何でも勝手に使っていいから

オッケー。
ね、調味料の中に催淫剤ってある?

ねえよ

そっか残念。じゃあ楽しみにしていてね。
いってらっしゃーい



 オルちゃんに見送られ、私は部屋を後にする。なんだか新婚家庭みたいだなと思って、私は近所のおばさんに気付かれないように苦笑した。
 人間になったアダルトグッズという非常識な存在を、周囲はどう思うのだろう。私はたまたま受け入れることができたのだけれど、やはり世間の物差しで測った場合、そうそう上手いこと納得してもらえるはずもない。
 私がそういう世間で生きている以上、オルちゃんとの生活はいつまで続けることができるのか。そもそも私はこの生活を続けていきたいのか。今はまだわからないことばかりだ。
 オルちゃんには申し訳ないけれど、もうしばらくは部屋にこもってもらおうと思う。でもいつかは、一緒に散歩や買い物くらいしたっていいのかもしれない。
 





 時刻は正午。同僚の中園さんからランチに誘われ、私は席を立った。
 中園さんは私が入社して初めて仲良くなった同期の女性社員であり、私達は週に二、三回は二人で外のお店へと向かい、ランチを済ませているのだ。


はあ、平田さん、今日もかっこいいね。ねえ、岩山さんもそう思わない?



 廊下で足を止めた中園さんが、頬を染めて視線を送っているのは、部長と仕事の話をしている最中の、ひとりの男性社員だった。
 平田と呼ばれたその人の周囲を眺めてみれば、彼に視線を投げているのは何も中園さんだけではなかった。デスクの向こうからちらちらと、何名かの女性社員が気になるとばかりに顔を覗かせている。

私はよくわからないかな、そういうの。
あまり興味がないというか

岩山さんってあまりそういう話、しないよね。平田さんを見てもピンとこない?

うーん、こないかな

好みの問題なのかな。
平田さん、やっぱり彼女とかいるのかな。あれだけかっこいいと、まさかいないなんてことはないんだろうね。
でもちょっとは望みないかなあ

中園さんは本当好きだねそういうの

イケメンさえ見ていれば、仕事頑張れるもの



 私は中園さんが熱い視線を送る先を横目で追ってみた。


 平田宗明。今年29歳の働き盛りだ。まるで少女漫画から飛び出したかのように端正なマスクと180cm近い高身長、元水泳部だというだけあってたくましい肉体、けれど誰にも恐怖感を与えることのない柔和な雰囲気と人当たりのいい性格、なにより同期の中では出世頭に分類されるほど有能なビジネスマンであり、その仕事ぶりは社内での評価も極めて高いがそれを鼻にかけることもない。
 社内にはなんと女子社員有志によるファンクラブまで設立されており、その濡れた視線と黄色い声を一身に受けている、弊社きってのモテ男なのだ。

 けれど、私には興味がなかった。昔から、アイドルやミュージシャンの話題で盛り上がる女子に同調することができなかった。ある日、知人から干物のようだと言われたこともあったけれど、そう言われても関心が湧いてこないのだからしょうがない。
 中園さんはそんな私とは真逆で、ミーハーな部分を強く抱えていた。まるで正反対の二人なのだけれど、どうしてだか妙に馬が合うのだった。


まあ、たしかにかっこいい人だよね。
そんなことよりご飯いこ? 時間なくなっちゃうよ



 そのとき、ふっとこちらを振り向いた平田さんがにっこりと微笑みかけた。
 突然の平田さんの行動に、大きく反応したのは中園さんだ。思わず歓声が上がりそうになるのを、必死に抑えている。

ね、岩山さん! 
いま平田さん、私を見て微笑まなかった!?

そんな、気のせいだって……私達の前にも後ろにも、平田さんに視線を送っている人いたし

いや、絶対私を見ていたって! 
あー、でも平田さん、誰にでも分け隔てなく優しいからなあ。単に見られていたことに気付いて、リアクションしてくれただけなのかも

多分そうなのかもね



 まるでコンサートでアイドルから手を振ってもらったファンのように、全身で喜びの感情をアピールする元気な中園さんを横目に多少呆れながらも、私の中では小さな疑問が浮かび上がっていた。


 平田さんは、私に微笑みかけていた……?


 そんな思い過ごしに過ぎないそんな考えが胸の奥をかすめると、私は自分自身を嘲笑するようにふっと小さく息を吐いた。こんなことを考えるようじゃ、決して中園さんのことを自意識過剰だと呆れることができる立場なんかではない。
 けれどあの瞬間、たしかに目が合った気がするのだ。心の引力のようなものが、作用していたような気がするのだ。
 私は平田さんのことを、単に社内の女子に人気がある人程度の認識しか持っていなかったのだけれど、私の中にも平田さんを特別に見るようなミーハーな感情が存在していたということだろうか。

考えすぎね、考えすぎ……

 

 職場の近くでランチを終えてデスクで午後の業務に向かっていた私は、襲いかかる眠気を缶コーヒーで流し込んでいた。

オルちゃん、料理うまくいっているかしら……



 そもそも人間の味覚のようなものを持たないオルちゃんの感性で料理を作らせて、私が口にしても大丈夫な代物が出来上がるなんて保証がどこにあるだろう。私はここにきて自分の読みの甘さを呪っていた。まあ人間の口にする食材で、人間の作った調理器具を使い、人間の生み出したレシピに沿って作るのだから、死ぬことはないのかもしれない。




 缶コーヒーが切れたので、私は業務の区切りがついたところで給湯室へと立った。給湯室にはすでに先客がいた。また女子達が井戸端会議でも繰り広げているのかと思っていたので、予想外の人物の登場に、私は息を呑んだ。

あっ、平田さん……お疲れ様です

あっ、岩山さん、お疲れ様


 私は少し驚いた。平田さんは、私の名前を知っていたのか。
 ひとりでコーヒーをすすっていた平田さんは私の姿を認めると、神妙な面持ちでコーヒーの中身を一気に飲み干した。私は私で先ほどのことがあったので、否が応でも鼓動が高まりつつある。

あの、岩山さん

は、はい



  突然の呼びかけに、私の声は思わず裏返っていた。

今週末……金曜の夜って空いてますか?

き、金曜ですか? 
ちょっとスケジュールを確認してみないと……



 焦りを抑えながら答えたものの、予定など今のところない。せいぜいいつものように友人を誘って、適当なバーで職場の愚痴を言い合う程度である。


もし岩山さんさえよかったら、今度僕と食事に行きませんか? 
おすすめのレストランがあるんです

えっ……ちょ、ちょっとまってください。
急にそんな、困ります。
そもそも、ど、どうして私なんです?



 平田さんは少し気恥ずかしそうに斜め下へ視線を向けていた。


その、どうしても岩山さんに話したいことあって……
もし大丈夫そうなら、ここに連絡ください



 そう言うと、平田さんはポケットからメモ帳とペンを取り出して、サラサラと自分の携帯のメールアドレスを書き記して破った。身を固くしていた私の手にそれを握らせると、


失礼しました。良い返事、期待しています



 うつむき加減にそう言って、私の返事を聞くこともなく給湯室を後にした。


は、緊張した……!



 私は力が抜けきった身体が膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ、突然過ぎ去った短い嵐のような出来事を、その手に握らされた紙の感触で夢まぼろしではないことを確かめる。
 それからの私は終業まで集中力を保つことができず、時々うわの空になっては我に返るということも幾度も繰り返していた。
 




 社内一の人気者から口説かれた……その事実を受け入れることに、私はずいぶんと時間を要した。帰りの電車に揺られながら今日の出来事をゆっくりと噛み締めていくと、私は自分の中で不安が膨らんでいくのを感じていた。


お昼前に感じたあの視線は思い過ごしじゃなかった? 
でもなんで私なんて冴えない人間が、平田さんみたいな人気者に? 
平田さんだったらもっと魅力的な人、よりどりみどりなんじゃ……

あっ、もしかして罠? 
私に何か悪いことをしでかすつもりじゃ? でも平田さんがそういうことするような人間には思えないし……でも人間は誰が裏を抱えてもおかしくないけれど……

もしかして本当はめちゃくちゃプレイボーイで、狙いを定めた女性社員に片っ端から声をかけているとか? 
でもそんなことしたらすぐに社内中に評判が広まっちゃうだろうし……

それとも何か別の目的が? 
勧誘か何かかな? 
宗教? 政治団体? 高額商品のセールス?



 考え出せばキリがなかった。他の女性社員が羨むような立場にありながら、彼女たちに対する優越感といったようなものは湧いてこず、私のような人間がなぜと考えると、逆に小さな罪悪感がこみ上げてくる。


そういえば私、男の人からこうして誘われたことなんてなかったな。家を出た日からずっと身持ちは固くしてきたし、誰かに依存しないように、極力避けてきたというか……



 特定の誰かと、俗に恋人と呼ばれるような関係を持った経験はなかった。意識してそうしてきたという部分もあったし、単に巡り合わせに恵まれてなかったというのもある。このままでもいいやという思いもあれば、本当にこれでいいのかと考えることもあった。
 恋人なんていないほうが気楽だというのはとてもよくわかるのだけれど、それは私のように恋人がいなかったことのない人間が言って、説得力が伴うだろうか。自分の知らないことをはっきりと切り捨てていいのだろうか。
 家に帰るとオルちゃんがいる生活が始まって、ひとりで過ごさない夜の魅力というのも少しずつわかってきた。
だからといって手頃な人をさくっと見つけようという安易な思いはもちろんないけれど、もし誰か『いい人』を見つけるとしたならば、今こうして平田さんに誘われたということは、タイミングも人選としても申し分ないのではないか。仮に色々とダメだった場合は、すぐに逃げてしまえばいいのだ。逃げられるのならば。




 私は決意を固めてスマートフォンを取り出すと、少しだけ考えて、やがてメールの文面を打ち込み始めた。


『お疲れ様です 岩山です
 金曜の夜 空いています
 よろしくお願いします』


 拙い言葉だった。メールが無事に送信されたとき、私は背中にうっすらと汗をかいていて、心臓は早鐘を打っていた。平田さんからの返信が届いたのは、そのわずか三分後だった。




 ドアを開けると、オルちゃんのいつもの笑顔が飛び込むのと同時に、美味しそうな香りがふわりと鼻をくすぐってきた。


麻子ちん、おかえりなさい

ただいま。この匂いは……カレー?

そう、私が生まれて初めて作った料理だよ。ルーの箱の後ろに、材料もレシピも丁寧に書いてあったから助かったよ

へえ、きちんと守って作れたのね

私は一応、元が精密機器だからね。説明書きは厳重に守らないととんでもないことになるっていうことは、人間以上に理解できてるよ



 その勢いで今後は人間の羞恥心のことも理解して暮らしてほしいと思ったけれど、美味しそうなカレーの香りに免じて口には出さないことにした。
 なんだかんだで、家に帰ると温かい食事が用意されているというのは悪い気がしない。あとはカレーが食べられるものに仕上がっていることを祈るだけだった。


そんでね、麻子ちん。
今週の金曜の夜なんだけど



 オルちゃんが不意に投げたその言葉に、私の全身がビクリと跳ねる。


どうしたの、麻子ちん?

い、いや。なんでもない。金曜の夜がどうかしたの?

カレーを作って思ったんだけれど、料理って楽しいなあと思って。麻子ちん、金曜の夜はいつもお酒呑んでるでしょう?

だから豪華なおつまみを私が作ってあげようと思って。
いつも頑張って働いている麻子ちんへのご褒美とお礼だよ

そ、そう。気持ちはありがたいんだけれど、その日はちょっと先約があって……



 平田さんとの食事の件は、オルちゃんには秘密にすることにした。脳と下半身が直結したようなオルちゃんのことだ。男の人と一緒にいるなどと知られると、どれだけお下劣なことを口にされるかわかったものではない。


先約? お友達?

うんうん。友達。一緒に呑む約束しちゃってさ。だから帰りは遅くなりそうなの。
ごめんね。さ、カレー食べよ



 私としては上手に取り繕ったつもりだった。
 しかし、私の言葉に納得がいかないと言わんばかりに、オルちゃんの表情はくもり、疑惑の色が浮かび、やがて疑いの眼差しを向けるようになった。私はそれに気づいていないふりをしながら、食器棚からカレー皿を取り出そうとする。そういえば食器は一人分しか無い。


……あやしい

な、なにが? なにも怪しくないわよ

さては男でしょ?



 私は思わず、手に持っていたカレー皿を床に落としかけた。


麻子ちん、たしか彼氏いなかったはずだし、誰かから誘われたクチかな?

そ、そんなわけないでしょ。
男だなんてそんな、ねえ……

あのさあ麻子ちん、自分では気付いてないだろうけれど、動揺してるときとか、感情とか、思っていることがすぐ表情に出るんだよ

う、嘘よ。私は昔からポーカーフェイスだけは得意中の得意なのよ。そうそう簡単に見破られるわけ……



 そこまで言って、私はあっと声を漏らした。訝しげに歪んでいたオルちゃんの顔に、露骨な怒りが広がっていった。


やっぱり! 私というものがありながら男の元へいっちゃうんだ! サイテー!

な、何が最低なのよ! 
これでも年頃の女なんだから、そんなことくらい普通にあるでしょ!



 私は開き直ることにした。いや、これは開き直りというべきことなのだろうか。とりあえず隠すのはやめた。


あーはいはい、結局は竿ね。大人のおもちゃは買うけれど、結局は生の竿が一番ってことなのね

竿って言うな! 
第一、オルちゃんみたいにすぐ下半身に結びつけて考えるような快楽原理主義者にはわからないようなことが、人間にはあるのよ!

ぐ……!



 オルちゃんは言葉に窮したようだった。人間にしかわからないこと、という言葉でオルちゃんを攻めてしまうのはいささか卑怯で、かつオルちゃんの感情を慮ったものではなかったけれど、私は多少胸を痛めつつも、今はお互いに言葉を選んでいるような余裕などなかった。


そもそも、これはただの食事なの。その後どうこうなるとは限らないし、平田さんはそうやってがっつくようなタイプじゃないっての

ふーん、平田っていうんだ、その竿

だから竿って言うな

その竿のこと、ずいぶん信頼しているようだけど、どうこうしちゃう可能性あることが問題なんじゃない、大人の男女なんだから!

何が問題なのよ。仮にどうこうあったとしてそんなの当人達の自由じゃない。大人の男女なんだから!

あー!あー!あー! 開き直っちゃった! はい堕ちました! 麻子ちんがチ◯ポに負けちゃいました!!

お父さんお母さーん!聞いてますかー! 
あなたの大事な娘さんは都会でチ◯ポに負けましたよー!!

まだ負けてないわよ! 
そもそも勝負じゃないわよ! 
つかあんたどんだけ最低なのよ!!

クリスマスは靴下に
『サンタさん チ◯ポください』って書けばいいじゃん!

書くかバカ!

うあああああ!! むっきいいいいい!! ずんどこべろんちょふぅーどぅばァー!!

ちょっと、静かにしなさいよ。
近所迷惑でしょ!

あばばばばばwwwwwwww



 取り付くしまがなかった。
 金曜の夜のことがオルちゃんに気づかれてしまえば、平穏にはいかないだろうとはわかっていたけれど、まさかここまで取り乱し、ここまで下品になるとは思ってもみなかった。
 暫くの間、発狂さながらにわめき散らしていたオルちゃんは、やがてさめざめと泣きながら布団に潜り込むと、まるで部屋中に呪詛を撒くかのようにぶつぶつと何かをつぶやき続けていた。


うわああああ、麻子ちんがチ◯ポに堕ちた。私を捨ててチ◯ポに走った。
チ◯ポに、チ◯ポ……

あの、それ聞いてるとこっちの頭がおかしくなりそうだからやめてくれる……?



 オルちゃんがいくら哀しみに暮れたところで金曜の夜の予定は変わらないし、変える気もない。私の中にあったオルちゃんへの少しの申し訳無さも、きっと気のせいだと思うことにして、私はオルちゃんが作ってくれたカレーを、まるで義務のようにもさもさと口へ運ぶ。
 カレーは無事に食べられるものだった。レシピ通りに作ったのだから当然とはいえ、普段ならきっと素直に美味しいと褒めるところだろう。けれどレシピ通りに作ったにも関わらず、その日のカレーはまるで粘土を食べているかのように、味を感じることができなかった。





 翌朝からのオルちゃんは借りてきた猫のように大人しくなり、掃除や洗濯こそ済ませてくれるものの料理に手を出すことはなく、何より普段のように私に『お花摘み』を求めてくることもなくなっていた。
 まるで自分の価値を見失ったかのようなうつろな表情で、いや本人としてはまさにそんな心持ちなのかもしれないけれど、とにかく私もそんなオルちゃんに対してどのように反応してあげるのが正解なのかわからず、暗い雰囲気のままいよいよ金曜日を迎えてしまった。


じゃあ、いってきます



 いつものように私が玄関に立っても、オルちゃんは姿を見せようとはせず、布団とベッドの隙間からそっと視線を投げてくるだけであった。あれから連日、この調子である。


オルちゃん、その……



 さすがに少し後ろ髪を引かれるような思いをしたか。私は少し迷いながら、オルちゃんに言葉をかけた。


すごく経験豊富な人がその、どれだけセ……セックスしていても、『お花摘み』は別腹って、言ってたよ



 我ながら何を言ってるのだろうか。この言葉を以てオルちゃんに対して何かの慰めになると思っていたのだろうけれど、なんだか空回りしているような気がしてならない。



 今夜のことを思い、オルちゃんのことを思い、仕事の能率は著しく下がった。いつものように中園さんが私をランチに誘ってきたけれど、その屈託の無い笑顔に、私はやはり罪悪感を振り払うことができずにいた。
 夜の訪れが怖かった。それでも時間は当たり前のように流れ、終業のベルと同時に席を立つと、私は平田さんと待ち合わせた場所へと足を運んだ。



 待ち合わせ場所では平田さんがそわそわと時計を眺めていた。まさか緊張しているのだろうか。こういうことにはもっと慣れている人だと思っていたのだけれど、私の思い違いだったのか。本当はイメージよりもずっと謙虚で紳士的で、貞操観念の強い人なのかもしれないと思うと、いささかの安心感が湧いてきた。
 同時に、だいぶ遅れながら実感できたのだった。ああ、私はこれから殿方とデートをするのだ……。


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……

きちゃった。
まさか初めての外出が尾行だなんて。バレたら麻子ちんに怒られるかなあ

ううん、これは麻子ちんを悪い男から守るため。もし平田の野郎が麻子ちんに毒牙を向けたら、私が飛び出して制裁してやるんだ

しかし、あれが平田って男かあ……言いたかないけれど、たしかにイケメンだし、物腰も柔らかいし、優しそうな男ね

麻子ちんにはお似合いか……
いやいや、そんな弱気になっちゃダメだ。私には麻子ちんを守るという役目が……

おい

ぎゃー!!

へへ、変質者!
助けて、犯される、殺される、助けて……!

誰が変質者だ。こそこそ他人の後を付け回しているお前のほうが変質者だろうが

あ、まさか警察に連れて行くつもり? 
ごめんなさい、許して! ほら、わたし人間じゃないから。
逮捕したって人権ないから!!

ああ、こんな説明したってわかってもらえるわけないか。
ごめんなさい、どうか通報だけは……

お前、平田に用があるのか?

へ?
……まあ、あるっていうかなんというか、あなた平田の知り合い?

たまにいるんだよ。平田はモテるから、お前のような追っかけがこうやって平田の後を付け回して

ちょっと、私はあんな奴の追っかけなんかじゃないわよ。そもそもあなた何なの? あの男のなんだって言うのよ

とにかくさっさとここから……ん?

な、なによ

……いや、なんでもない。
そうか、『そういうこと』か。
そうなると、お前にだけは話してもよさそうだな

……?

……恋人だ

は?

俺は、平田の恋人だ




第六話につづく